記憶の中の貴方へ
「貴女には、この時計が一番似合う」
選んでくれたのは、LOCMANの時計。
手首が華奢な私には大ぶりのような気がしたけれど
あの人は有無を言わせなかった。
深い海を思わせる文字盤と革ベルト。
小さなダイヤが鏤められた時計。
今日見ると、11時半のままだった。
イタリアマダムのようなファッションが好きと
伝えたときのあの人の目の輝きを思い出す。
「大人の女に、私が仕立て上げよう」
私の父と2歳しか違わないあの人と私は結婚したかった。
私より3歳年下の娘がいた人だった。
離婚をして一人暮らしをしていた頃に知り合った。
待ち合わせはいつも銀座。
鳩居堂の隣のビルにあった京セラコンタックスサロン。
今はもうなくなってしまった秘密の空間。
あの人よりいつも少しだけ早く着いて、エレベターの扉が
開くたびに胸の高鳴りを確かめていた。
靴はフタバヤでイタリー製を選んでくれた。
胸元が少しあいたシャツブラウスが好きだった人。
「女は、装飾は要らない、貴女自身が宝石だから」
リングもペンダントもつけず、LOCMANの時計と
シンプルなバックというスタイルがあの人のお好みだった。
「髪は、セミロングがいいね、貴女には一番似合う。少し
明るめにしてごらん」
「香りは、ゲランにしなさい、SAMSARAがいいね」
あの人の手で女になっていく私だった。
神様は、突然人の幸福を妬むのかもしれない。
あの人が病に倒れた。
知らせてくれたのは、あの人の娘だった。
蜩のなく夏の終わりだった。
喪失感が大きいと涙もでない事を知ったのはこの時だった。
私に残されたものは、あの人の美意識とこのLOCMANの腕時計。
そして・・・貴方への永久の愛。